~蛍~
闇夜に浮かぶ月が優しい光を降り注いでいた。
辺りは虫の音が響き渡り、部屋の中で寄り添う二人は気だるい幸せな余韻に浸っていた。
「そろそろ蛍の時期ですね」
「今度行ってみましょうか」
「はい。永光さんと一緒に行けるなら嬉しいです」
ふふっと嬉しそうに微笑む彼女は愛らしい。
いつでも少し恥ずかしそうに照れながら、まっすぐに自分だけを見てくれる。
そんな彼女を見ていると、こんなに幸せでいいだろうかと思ってしまう。今まで自分がしてきた事を思うと、本当にこれでいいのかと。
彼女の隣を歩む道を選んだ。
そんな自分は明るい道を歩んでいいのか。
今歩んでいる道の先は、暗い霧がかった茨の道かもしれない。
「永光さん?どうかしましたか?」
彼女がふと私の頬に手を添えて心配そうに尋ねてきた。眉を下げ覗き込んでくるその顔ですら愛おしい。
「いえ…蛍に嫉妬していただけですよ」
「蛍にですか?もぅ永光さんったら……」
「貴女の瞳に映っていいのは、この私だけです」
少し強引に唇を奪い舌を潜り込ませると、甘い吐息をこぼしながらも応じてくれた。
そして、そのまま朝まで彼女の身体に溺れていった。
________
ある朝、公務が始まる彼女をいつものように迎えに行く。
「上様、失礼致します」
「……はっ、あぁ」
いつもなら軽やかに返事をしてくれるはずなのだが様子がおかしい。嫌な予感で襖を開けると、左胸の辺りを握り苦しそうにしている。
「茜!大丈夫ですか!」
急いで駆け寄り彼女を抱き締めると身体を上下にし苦しそうに息をしている。
顔は青ざめ唇をきゅっと噛み耐えているように見えた。
「緒形殿を呼びます。少し待ってください」
「…大丈夫、です。少し、息苦しい、だけなので」
「どこが大丈夫なんです!」
「誰か、緒形殿を!」
騒ぎを聞き付けた稲葉が褥の準備をしてくれ、そこへ茜を横にさせた。
私は傍らに座り手を両手で包み顔を覗く。
浅い息を繰り返し、瞳は閉じたまま耐えている。
(一体何が彼女に起きているんです……)
(こんなことは今まで一度もなかったのに)
御殿医である緒形殿が診察している間に、春日局様も駆けつけた。
心配だとありありと顔に出ている春日局様を見るのは稀である。
「上様の様子は」
「ご心配なく。お疲れのようです」
診察をおえ部屋を出て行こうとした緒形殿は、春日局様へ目配せをする。無論私にも。
「茜。白湯を持ってきますね。少し待ってて下さい」
こくんと頷く彼女は先程より落ち着いてきたように見える。胸の辺りを握り閉めていた手も下ろされ、ゆっくりと呼吸している。
後は稲葉に頼み、前を行く二人に続いて部屋を出た。
そして春日局様の部屋へ入り腰を下ろすと、緒形殿が口を開く。
「茜さんの心の臓が、おかしな動きを見せています」
「どういう事なのだ」
「脈を診ますと定期的に刻まれておりません」
「……何」
「暫く様子見が必要かと。公務も少し減らされた方が良いですね」
(心の臓がおかしな動き……)
[newpage]
確かに連日の激務で疲れていた。
茜はそれを感じさせないくらいの笑顔で私との逢瀬もしてくれていた。
「永光さんと一緒に過ごせる方が、私は元気になれます」
ふわっと微笑まれると、可愛すぎるその姿を独占したくなり気が付くと毎晩のように求めていた。
(私としたことが、つい彼女に甘えすぎてしまいましたね)
どうも彼女が関わると自分を見失ってしまいそうになる。もう少し早く気が付いていればこんなことにはと思っても遅い訳で。
あんなに近くで彼女を見ていたのに、変化に気がつけなかった自分を責めながら葵の間へ戻る。
何事もなかったかのように茜は半身を起こしていた。
「あ、永光さん」
「寝ていないといけませんよ」
「もう何ともないので大丈夫ですよ。ご心配お掛けしてすみません」
こんなときにまで凛とした顔を見せてくれる。
健気にも心配かけまいとしているのだろう。
大丈夫なはずがない。あんなに苦しそうな顔は見たことがないのだから。
「ゆっくり休んで早く元気になってくれないと困ります」
起きていた彼女の体を支えまた横にさせると、心なしか軽く感じた。
「構ってくれる相手がいないとつまらないんです」
「ふふ。じゃあ頑張らなければいけませんね」
「では、眠るまで側にいます」
彼女の髪をすくように撫でていると気持ち良さそうに目を閉じた。間もなく寝息が聞こえてくる。
離れがたい気持ちはあったが、今は自分のやるべきことを済ませてこようと葵の間を後にした。
________
公務の数は減らしていったが、茜は体調は更に悪化していく。何をするにも苦しそうに胸を押さえる。しかし、公務の最中は辛い顔を見せず立派にやり遂げるが、葵の間に着くのがやっとでそのまま倒れ込むことが殆どである。
「茜様、もう明日からの公務は休みましょう」
「ダメだよ…稲葉。……まだ、沢山……やることが」
「これ以上はもういけません!春日局様に進言して参ります」
外でやり取りを聞いていた春日局様と私は共に葵の間へ入ると、稲葉は顔を上気させ膝をつき今にも立ち上がろうとしていた。
「茜、貴方をこれから静養させる事にした。このままでは今後の公務に差し支えるのでな。そして、お万の君を同行させよう」
「茜の事はこの私にお任せください」
「……しかし、上様不在、と言う…わけには……」
「貴方はそんなこと気にせず、ゆっくり休まれよ。そして、早く公務に戻るのだ。わかったな」
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茜の意見は聞かないとばかりに踵を返し、春日局様は部屋を出ていかれた。残された私達は静養所に向かうべく荷造りを始め、私も自分の荷物をまとめるために部屋を後にした。
「茜、すぐに戻ります」
「……はい。永光さん」
いつもの笑みほどではないがそれでも彼女の微笑む顔を見て思った。身体が痛むはずなのにそれでも自分に対して微笑んでくれるその健気さに心が打たれると。
大奥総取締役の仕事を他人に任せるなど、今までの自分なら有り得ないことだったが、茜の一大事となれば途端に変わる。
(彼女を一人にしたくない。一時も離れず寄り添っていたい。心配でたまらないのです)
間もなくして療養所に向けて旅立った。
具合の悪い彼女に配慮するかたちで、ゆっくりと、負担をかけないようにこまめな休憩をとりつつ進んだ。
しかし、療養所に着いてから彼女の病は悪化していくのが悲しいくらいにわかった。
発熱が治まらず、食欲も無くなって、熱に浮かされて私の名を呼ぶ日々が続く。
「…えい、こうさん。えい、こ…さん」
「はい。傍に居ますよ。安心してください」
額から落ちる汗を拭っては水に浸しての繰り返しだった。その間も彼女の手を握り祈りを込める。
苦痛に歪むその顔を見てるだけでもとても辛い。
他には何もしてあげられないのか……
痛みを少しでも和らげてあげる術はないのか……
いっそのこと私が変わって差し上げたい。
もうこんなに辛そうな顔させないで欲しい。
私が何でも償います。だから茜を……。
「なか、ないで……下さい」
いつのまにか頬を伝ってこぼれ落ちていた温かな雫にさえ気が付かずいた。
こんな時まで私の心配などしなくてよいものを。
慌てて涙を拭き取り彼女を見つめる。
「永光さん。少し起こして、下さいますか」
背中に手を回して起こし、後ろから包み込むように抱きしめる。あと何度こうして彼女を抱きしめる事ができるのだろう。彼女の温かさを感じることが出来るのだろう。
「辛くありませんか?」
「はい。大丈夫です」
「永光さん。伝えたいことが、あるんです」
(……聞きたくありません。嫌です)
「はい。何でしょう」
心のうちは悟られないよう微笑みを保つ。
一瞬で崩れてしまいそうなその仮面は剥がせない。
今は、今だけは。
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「こうして、永光さんの、香りに包まれると、とても幸せでした」
「優しく、見つめてくれる、その瞳が、大好きでした。いつも恥ずかしくて、でも、嬉しくて…」
「…でも、これからは、他の方に。……他の方と幸せに、なってください」
「何を言うんですか。そんな話なら聞きたくありません」
「大切な話です。私の事愛してくれて、ありがとう、ございました。私も永光さんを、愛せて良かった」
ここまで話すのもとても辛いのだろう。深呼吸をして少し間を開けてからまた話始める。
「自分でも、もう、分かるんです。だから……」
「永光さんに似た、聡明で、可愛い男の子が、欲しかったな……」
「っ……。私は貴女に似た女の子が良いです。男の子だと貴女を取られてしまうので」
「もう……永光さんったら。ふふ」
「笑ってる顔。綺麗ですよ」
こうして他愛もない話をするこの時間が止まればいいのに。このまま茜を抱きしめたままで……。
茜は静かにまた語り始める。
「私が、いなくなったあと、この髪の……一房を切って、蛍が見える場所に、埋めて下さいませんか?」
「貴女と一緒に行くんです。約束しましたから」
「…一緒に……」
嬉しそうに微笑んで涙を流す茜は瞼をそっと閉じる。とても幸せそうな笑顔だ。
「……最期に。永光さんの、腕の中で良かった」
「茜っ!目を開けてください!私を見てください!」
「愛して……れて、ありが……」
「私も愛してます!茜を、だからっ!」
体を上下させて苦しそうにしていたのが、落ち着きを見せ、穏やかな顔で寝ている。
「貴女と言う人は……本当に仕方ありませんね」
「私を置いて先に寝てしまうなんて、お仕置きが必要……っ」
(待って下さい!私を置いていかないで!)
「……いこうさ~ん!永光さん!」
「っ!茜っ!」
「あっ!痛いですよ?どうかしたんですか?」
急に茜の声が聞こえてきつく抱きすくめると、不安そうな顔で私を見つめていた。
(これは……一体)
「永光さんったらこんな所で寝てしまったんですか?風邪引いてしまいますよ」
「……夢、でしたか」
「大丈夫ですか?とても苦しそうでしたが、一体どんな夢を?」
「……忘れてしまいました」
「悪夢だったのなら、起きて良かったですね」
良かった。本当に良かった。
まさかあんな夢を見るなど思わなかったから。
茜の体温を感じほっと胸を撫で下ろす。
「……やはり気に入りません」
「え?」
「私を悲しませた罰を受けていただきます」
理不尽な理由で魅惑的に光る彼女の唇を奪った。